読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

海辺の叙景

音楽の話などをします

「ディグ」

 大学に入学して一ヶ月ほどが経ち、新しい生活にもある程度慣れてきました。大学にはいろいろな地域から、いろいろな人が集まっていると聞いていましたが、自分が思っていた以上にそれは顕著でした。自分は音楽系サークルに幾つか所属しているのですが、先輩や同級生は皆とても個性的で衝撃を受けますし、クラスの友人も皆どこか尖っている感じがします。そういう人たちと接しているうちになんだか、自分には個性がないように思えたり、自分の音楽に関する知識の乏しさに落胆してしまうこともここ一ヶ月の間には少なからずありました。

 

 「ディグる」という言葉が最近、巷で流行している気がしますが、ミーハーな僕はこの言葉を連呼しております。「ディグる」という言葉は、”Dig”をする、すなわち掘り下げるという意味で使われていて、レコードを漁ったりするときなんかに、「ちょっとバイナル、ディグるわ~」なんて言うと音楽通っぽさを演出することができます。(ちなみにバイナルとはアナログレコードのことです。)僕は友人にオススメのジャンルやバンドなんかを聞いては音源を「ディグる」のですが、これは誰もが行う事であると思います。

 

 音楽に詳しい人が周りに多く存在していると、つい自分の音楽の知識の乏しさに落胆し、強迫観念にとりつかれたかのように音源を「ディグり」ますが、どの音楽ジャンルも、掘り下げても掘り下げても音源が出てくるような底なしの沼なのです。当たり前のことかもしれませんが、音楽は単純に楽しむために聴いているはず。強迫観念に取り付かれたかのように音源を「ディグら」なければならないのでしょうか。答えはノーだと思います。

 

 「いろいろなジャンルの音楽を聴いて、自分の視野を広げよう」なんてよく言われますが、僕が思うに別に無理して視野を広げる必要もないですよね。むしろ、外の世界を知らない井の中の蛙になり、自分の好きなものをひたすら聴いて自分の世界を創りあげるのが音楽の醍醐味ではないかな、と僕は思います。家の外にでてレコード屋の棚を「ディグる」のではなく、自分の部屋に籠って自分の心を「ディグる」ことを大切にしたいですね。

 

 

 なんだか説教くさいですか?そう感じた人は一つ前の文章の「自分の心」を「自分の尻の穴」に変えてもらってかまわないです。

 

水槽と廃棄物最終処分場

 僕の住んでいる家には地下室があった。地下室の壁一面には、水槽が埋め込まれていて、ちょっとした水族館のような部屋になっていた。しかし、水槽には水は一切入っておらず、その中にはもちろん、魚は一匹も泳いでいない。水草や砂利もなく完全に空だった。母親が言うには、僕が生まれる前まで両親はここで魚を飼っていたらしい。誰に見せるということもなく、ただ飼っていただけらしい。

 

  ある日、僕の母親が、ここで魚を飼いだそうと言い始めた。家族で水槽を掃除し、水で満たし、買ってきた小さいメダカを大きな水槽に放した。水槽の大きさに対してメダカはあまりにも小さく不釣り合いだったが、両親は満足そうだった。しかし、しばらくすると水槽にヒビが入り、そこから水が漏れてきた。気づいたら全ての水槽は割れ、床は水浸しになり、メダカは皆死んでしまった。僕はとても悲しかったし、両親も悲しんだ。

 

 

 気づくと、僕は廃棄物最終処分場にいた。あたり一面、ゴミが積もっていたが、とてもよく晴れていたので僕はわりと気分がよかった。僕は裸足に靴下を履いているだけだったので、ゴミの上を歩くのは気が引けたが歩くしかなかった。歩く必要はない気もしたが、歩いても歩かなくても変わらないのなら、歩きたかった。しばらく歩いていると左手に中華料理屋があることに気づいた。自分が立っている場所よりも低い場所にあったのでゴミの上を慎重に下りた。すでに足は傷だらけであったが、もうそんなこと関係なかった。なんとか中華料理屋のところまで下りてきたが、入り口が見つからず、慌てて店の周りを一周したが、やはり見つからなかった。店の電気はついてないので、今日は定休日なのかもしれない。

 

 中華料理屋を後にし、すこし歩いたが、足の傷が痛むので一度座って休むことにした。すると、ゴミの上にiPadiPhoneが落ちていることに気づいた。どうやら、まだ電源が入るようだった。iPadを起動するとTwitterの画面が出てきた。僕はこのiPadを持ち主に返さなければならない気がしたので、持ち主のTwitter画面を操作して、持ち主のアカウントから持ち主のアカウントにリプライを送った。この行為に意味があるのかはわからなかったが、それがきっかけとなり別のSNSを通して持ち主と連絡を取ることができた。すぐに引き取りに来ると言っていたが、この廃棄物最終処分場まで持ち主は来れるのだろうか。そして、僕はその後どこにむかえばいいのだろうか、iPhoneはどうすればいいのだろうか、全く検討がつかない。しかし、今日はiPadの持ち主が見つかってよかった、僕は良い行いをしたんだ、それに天気も素晴らしいし、良い一日だったなあ。

 

 おわり

 (3月28日に見た夢)

ゲームセンター

 何度か、このブログにも書いていますが、僕はドイツで生まれて小学校低学年までほとんどの時間をそこで過ごしました。幼稚園に通っていた頃に少しだけ日本に住んでいたこともありましたが、如何せん期間が短いのであまり記憶にはありません。


 ドイツに住んでいた間に何度か引越しをしたのですが、最後の何年かはニュルンベルグという所に住んでいて、家は郊外にある閑静な住宅街にありました。週末になると誰一人、外を歩いていない程に閑静で、家から車で5分ほどのところには針葉樹林の森があり、その先には石畳が敷き詰められた歴史のある城下町がありました。今思えば、まるでアニメや映画の世界のような場所に住んでいました。


 小学3年生の春に僕は日本に帰国し、来年度から小学4年生になるので、それに向けて準備をしていました。確かその頃だったと思うのですが、僕は親に連れられ近くにあるショッピングセンターで買い物をしていました。買い物を終え、ショッピングセンターを出るときに、僕はなんだか奇妙な店を発見したのです。それは所謂、ゲームセンターでしたが、ドイツ出身の田舎者にはあまりにも刺激的な雰囲気が漂っていたので、親と一緒に入ってみることにしました。中に入ると薄暗い部屋にきらびやかなゲーム筐体がたくさん並んでいて僕は圧倒されました、それに加え、異様な空間であるにも関わらず何事もないように出入りしてゲームをする人たちに驚きました。こういう場面で冷静でいられるのが大人なのだな、と思いました。


 今でも、なんとなく覚えているのですが、入り口近くにはメダルゲームのコーナーがありました。しかし、なんだかそれは難しそうだったのでパスしました。奥の方に進んで行くと、わりと難易度が低めに見える筐体が並んでいるコーナーがありました。その中で、とりわけ小学3年生の僕を魅了したのは、犬の散歩をするゲームでした。筐体にはベルトコンベアが付いており、その上を歩いて操作するゲームだったと思われますが、ベルトコンベアの部分が特に魅力的でした。僕は親にお願いし、1度だけそのゲームに挑戦することになり、100円玉を筐体に入れゲームはスタートしました。


 しかし、ゲームがスタートしても、肝心のベルトコンベアが動かないのです。僕が操作方法を間違えていたのか、筐体が壊れていたのかわかりませんが、一瞬にして自分のライフポイントは削がれ、あっという間にゲームオーバーになってしまいました。僕は騙された気分になり、非常に不愉快でした。筐体の電飾と画面に映るゲームオーバーの文字が僕のことをあざ笑うかのようにピカピカと点滅していました。100円払ってまでなんで僕はこんな気分を味わわなければならないのか。それ以来ゲームセンターが嫌いになってしまいました。


 ドイツにはあまり無いもので、日本にあるものは僕には非常に奇妙なものに見えます。前にも書きましたが、電車などはその一つで、僕には非常に魅力的に見えました、しかし、ゲームセンターは最初の印象が悪すぎたため、どうも好きになれないのです。春になると、自分がゲームセンターが嫌いだということについて改めて考えさせられます。


今日の夢、オムニバス

 コンクリートが剥き出しになった、古い大学のキャンパスのような建物の中にある練習スタジオにバンドメンバーと向かう。しかし、スタジオの入り口に「別の部屋をお使いください」と書いてある貼り紙が貼ってあった。別の部屋を見つけることができず、練習を諦める。

 建物の前には公園があったのでバンドのメンバーとたむろすることにする。机と椅子があったので座ろうとするが、机の下にiPadが一つと大量のカセットテープがあることに気づく。カセットテープのうちの一つは、あるアンビエントブラックメタルバンドのものであり、それは既に持っていたが、他のテープは見たことがなかったので貰おうかと思ったがやめる。iPadの持ち主はどうやら、女の子のようで、中を覗きたくなったがやめた。すると、すぐに持ち主の女の子があらわれる。僕の勘もたまには頼りになる…。


おわり


 母親と一緒に車に乗る。運転手は母親で、僕は助手席に座ってる。僕たちが大きいのか、周りが小さいのかはわからないが、僕たちより少しだけ小さい人間の街を車で走っている。交差点に差し掛かった瞬間、目の前に女性の小人が何人かいることに気づく。母親は慌ててハンドルをきってよけようとするが、うまくよけることができず、何人かを車で轢いてしまった。しかし、母親は気にせず運転を続けた。

僕が後ろを振り向くと、怪我をした女性の小人達が倒れていて、こちらを見ている。僕は慌てて、

「引き返した方がいいよ、小人を轢いてしまったのだから。車のナンバープレートも見られてしまったし、いずれにしろ逮捕される。」と叫んだが、母親は気にせず運転を続けた。

 僕は逮捕されてしまうのだろうか…不安で、不安でしょうがない…今なら引き返せるのに…。


おわり


休日にぐうたら長い時間寝ていると、途中で何度か軽く起きるからか、二つか三つの夢を見ます。

今日はそのうち思い出せた二つを書き残して見ました。二つ目の様な、「神経症的な夢」はかなりの頻度で見ます、週に1度か2度くらい。だからどう、ということもありませんが、できれば気分の良い夢が見たいですよね。


ファッション雑誌

 ある休日に僕は音楽雑誌を物色するべく、本屋に入りました。しかし、僕が読みたかった雑誌はことごとく置いておらず、仕方なく本屋の中をプラプラと見回りました。そして、普段なら近寄りもしないファッション雑誌のコーナーの前に立ち止まりました。全くと言っていいほどファッション雑誌は読まないのですが、これはいい機会かもしれないと思い、若者向け、要するに僕くらいの年齢の人達がターゲットと思われる雑誌を手にしました。すぐ横では、なんだか洒落た服を着ていてルックスの良い男性がファッション雑誌を立ち読みしていたということもあり、中学生の時に買ったジャンパーを未だに着ている自分がファッション雑誌を立ち読みするのは少々気が引けましたが、もう戻れません。そのお洒落な人にバカにされるのでは、という過剰な自意識を持ちつつ僕は雑誌のページを開きました。


 僕は息を飲みました。どのページをめくっても、僕にとってはまるで異世界の住人のような人達の写真がたくさん載っているのです。そして、驚くべきことに、多くが10代後半から20代前半の方達なのです。もちろんターゲット層が若い人向けだとはわかっていましたが、これほど多くの若い人が読者モデルとして載っていることに驚きました。なるほど、こういう世界もあるのだなと思いましたが、なんとも馴染めない感じ、というか違和感を僕は感じました。


 多くのページはモデルの写真やブランド物の服に関する記事が占めていましたが、後ろの方には音楽の記事があったので読んでみました。今話題のロックバンドのライブレポートなんかが載っていたのですか、どちらかというと、やはりファッション誌の記事ということもあり、お客さんのファッションチェックなどの記事が中心でした。僕はライブハウスに遊びに行く時は、ファッションに気を使うというよりタバコくさくなってもいい服を着ていく人間なので、ライブにお洒落をして行く人の記事というのはなんだか少し違和感を感じるものでした。


 「興味がある記事が特になかったというか、なんだか違和感しか感じなかったなあ」と僕は最後の方のページをパラパラとめくり雑誌を閉じました。しかし、最後の方になんだか引っかかるページがあったような気がしました。おそるおそる雑誌をめくり直し後ろの方のページを見ていると、そのページが見つかりました。いわゆる、包茎治療の広告ページでした。


 1ページも興味があるページがなかったと思っていましたが、包茎治療の広告ページは非常に興味をそそられました。もし、この雑誌に包茎治療の広告ページがなければ、僕にとってこの雑誌はまるで価値のないものなのかもしれませんが、包茎治療の広告ページが存在することでこの雑誌は僕にとってある種の価値を持つものとなると言っても過言ではないのです。思わず、その雑誌を買ってしまおうかと思いましたが、わりと高かったのでやめました。


 ちなみに、僕が包茎かどうか知りたいですか?うーん、直接聞いてくだされば答えます。

音楽について

 ここ最近で、もっとも世間を騒がせた事柄の一つとして、佐村河内氏による偽装問題があげられます。ゴーストライターの存在が明らかになったと同時に多くの嘘が次々と発覚し、ツイッターを始めとするSNS上でもこの問題について多くの意見が飛び交いました。

 その中で、とりわけよく見られたものは、「音楽の受け取り手は、音楽以外の情報で音楽を評価してはならない」と言った意見でありました。僕もなんとなく、同意していました。しかし、よく考えてみると、僕らは1度得た情報を頭から除外して音楽を「純粋」に聴くことなどできるのでしょうか。恐らく無理だと思います。似たようなこと前にも言いましたが、僕らの脳みそはそれほど都合良くは作られていません。もし脳内の情報を簡単に操作できるのなら僕らが精神的に疲労することはなくなります。

 要するに僕らは必ず、ある種の偏見をもって音楽を聴いていると思います。
それならリスナーの僕達は何を心がければいいのでしょうか。

 僕が思うに、リスナーがするべきことは、音楽以外の情報を除外するのではなく積極的に受け入れ、情報をそっと頭の片隅に置いておきながら、その音楽を聴くことだと思います。

 よく言われる「音楽を聴く上でジャンルやスタイルは関係ない」といった考え方ではなく、その音楽のジャンルやスタイルなどの情報をまず受け入れた上で音楽を聴く、ということです。スタイルやジャンルが違うバンドが対バンするとき、それらの情報を無視するのではなく、お互いのことを理解し認めあった上で演奏すると何だか良い雰囲気になりますよね、それと同じです。

 佐村河内氏が全聾の作曲者であると信じ、CDを買い、その音楽に感動するということは、いわば当たり前のことですし、僕らも常にそのようなことを行っていると思います。音楽を1人で楽しむ分には、いくら主観的になっても全然かまいませんよね。
 それゆえに、佐村河内氏が行ったことは咎められることですし、責任は大きいと思います。

 


小学生並

 小学生の頃の遊びに「パクって、ルールー」という遊びがありました。正式に名前があったかどうか思い出せないので、とりあえずこの場では「パクって、ルールー」としましょう。
 
 遊び方はごく簡単。

 「パクって、ルールー」
 「パクって、ナイナイ」
 「カレーの、ルールー」
 「カレーの、ナイナイ」

 この4つのうち1つを選び、リズムに合わせて歌います、それを何度も繰り返す中で同時に同じフレーズを歌ってしまった場合、その歌ってしまった人間が脱落していき、最後に残るものが勝者です。

 ここまで書いてみて、ふと気づきましたが、最後に2人だけ残ってしまったらどうするのでしょうか、覚えていません。
それに加えて、大人数だと誰と誰が被ったかなんて、瞬時に判断できたのかどうかもあやしいです。
 
 こういうルールの曖昧さが何だかリアリティがあって良いですね。この、「パクって、ルールー」の発案者のY君は元気にしているでしょうか。

 僕はもの好きな小学生だったので、よく児童館や学校で一輪車やコマの練習をしていました。1人でもくもくと練習をするのも結構好きでしたが、やはり何人かと一緒に遊んでみたいわけです。一輪車やコマには明確なルールがなかったので自分達でルールを作ります。
たいてい、欠陥のあるルールなのですが、そのように自分達で決めて遊ぶというのはなかなか面白いですよね。

 いつまでも少年の心を持とう、などの常套句で締める気はさらさらありませんが…

 (今まで「常套句」を「じょういんく」と読んでいましたが、正しくは「じょうとうく」と読むということに僕はここで初めて気づく)

 少年の心を持つ、持たない以前に、僕は小学生のくらいの時からあまり成長していないのかもしれません。